つらい、からこそ輝く人生

30代の男が考えてることを前向きに書いてます。

若手の人でうつっぽいなならもっと頑張るしかない。

数年前に新卒で入った会社の業務の中で、仕事ができないことをきっかけに自己嫌悪と直属の先輩との折りが合わずに職場にいづらくなり、だんだん出社をサボるようになって、やがては逃げるように転職し、その後の数年間から今までに手痛いしっぺ返しを食らった僕が過去の自分と似たような境遇の人に言いたいことは、

 

目の前の壁から逃げるな。そこで懸命に戦え。

それでもできないなら、できないことを受け入れて、その場にいながら今は他のことに目と頭と耳を向けろ。

だから今すぐには逃げるな。

 

となります。ああ、当時の自分に言ってあげたい。

 

少し自分を客観的に見れるようになったので、当時を振り返ると、

 

  • 先輩の自分への当たりが強いように感じ、だんだん怖くなってきて心が弱っていた。
  • 少しずつ本格的な業務になってきたが、興味もなければ、齧り付いて勉強する根性もなかったので知らないことが出てくるとすぐテンパる。
  • 無意味な残業を繰り返していて、帰って寝てすぐ会社で、土日も付き合いたての彼女がいて、1人で自省する時間が取れてない。
  • そのくせプライドは一人前。
  • 何か専門性のある知識やスキルは当然ない。

 

こんな感じだと思います。

 

それでも自己を正当化するので、『これだけ頑張っているのだから褒められたい。』という気持ちはむくむくと大きくなる一方で現実はそうでないので、そのギャップに耐えきれなくなっていたのが当時でしょうか。

 

残念ながらそんな人が転職してもキャリアアップはできないのです。年収は確実に下がる選択肢しかないし、その後に奮起しても背負ったビハインドを覆すには相当の熱量が必要です。

 

僕はまさに今、あの時辞めずにいろんな部署に移動したり、他の経験を自分のために積めば良かったと思うのです。

 

なぜか。

それは日本企業であれば、大小問わず大抵同じだからです。人も業務も業績も。

 

あなたがどこの会社に行っても、日本企業なら多くは日本人と接するのです。だから、あなたが今悩んでいることは必ず同じ人やことが出てきます。

 

同じ悩みにぶつかり続けるといつか分かります。

これは逃れられないのだと。

なぜなら、自分のスキルではここでしか生きていけないのだからと。

全て自分が選択した結果なのです。

 

だとしたら今よりも給料がよく、福利厚生がしっかりしているところで今自分に割り振られている仕事を半ば放棄してでも、その地位だけは確保して、自分の好きなことや興味のあることを勉強して自分で生きていける力を貯める選択ができたはず。

 

『なに言ってんですか。今の業務量は自分が捌かないとまずいんです。そもそもそんなことできるはずないでしょう。』

目標達成が、上司や同僚の目が、評価が、給料が。

 

でも、それがどこまで大切なんでしょうか。

 

会社は僕を守ってくれやしない。上司も同僚も仕事のつながりがあるから毎日会っているだけ。本当のあなたに興味がある人はあなただけなんです。

 

僕はこの選択ができなかった。

こんな惨めな思いをした職場からは早く逃げ出して、リセットしたかった。

 

でも、1から仕事をやり直す間に僕の年齢は上がります。家庭の時間が圧倒的に増えて、自分だけの時間なんて取れなくなった。

 

転職前に想定していたことなんて何一つうまく行かなかった。

 

それはすべて、自分の能力が足りていないから。

外に目を向けずに自己正当に走っていたから。

 

だから、僕は変えることにしました。

 

昨日の自分より1つでも良い自分になるのだと。

時間も金も体力も言い訳しない。出来ることをやる。増やしていく。

 

身近なことですが、二年くらい筋トレを続けてきました。がっしりしてきましたが、目を見張るほどではないです。

でも周りからの見られ方が変わってきました。継続できるなんて凄いね。教えてよ。と。

 

 

大したことはしてない、ただの筋トレでも続ければなんとなく良くなります。

 

今は肌に合わない職場も続けるだけでいいことはあるはずです。すぐに逃げ出さなくても日本企業はクビにはしてきません。思いっきり社内から嫌われてもいいじゃないですか。どうせ仕事が変われば関係ないのですから。

 

自分のために生きるべきです。損せずに。

 

そういうことをすると回り回って自分に返ってくるぞ。とスピリチュアルアタックをされそうですがそれも余計なお節介です。

 

地球規模で考えたら、あなたも私もチリ同然です。いずれ死にます。他の人の人生や、まして会社のために生きる理由はないのです。

 

人の痛みを緩和することやなくす事は偉大だと思います。ただそれは、やらされることではありません。あなたがやりたいからやるべきことです。

 

人に多少迷惑かけてでも自分らしい人生を歩むべきです。どうせチリです。大したことありません。

 

だから、自分のためにだけ頑張りましょう。

 

今日は以上です。

お読みいただきましてありがとうございました。

大手企業の友人とそうじゃない僕

学生時代からの友人と最近会ったのですが、優秀な彼をしてもこのジレンマに陥るのか。と僕が頭を抱えしまった話です。

 

日本にある多くの組織は営利目的が主たるものにあると思うのですが、このお金たくさん手に入れようぜ!という無限ループの行き着く先に対しての虚無感が甚だしいなと思うのです。

 

前年比より何%プラスという経営目標が定まり、それが各部隊に伝達され数字として具体化したものが各個人に下される。そして新年度がまた始まる。というのがよくあるサイクルだと思うのですが、これってなんなんでしょうね?

いつまでやればいいのか?なんでこんなことしないといけないの?って真剣に思います。

 

友人は優秀が故に結果も出せていて、組織からも信頼されていて責任が出始めている。やるべきタスクは数多くあり、元からプライベートも仕事に捧げながら生活しているところにさらに上乗せされるタスク。ますます私生活は無くなり、仕事一辺倒にならざるを得なくなり、仕事して寝るという生活。

 

彼は学生の頃から勤勉でがむしゃらに自分の限界に挑むように進んできました。人よりも倍こなすことを本当にやってしまうバイタリティはすごいなと思っています。贔屓目なしに見ても一生懸命やってきた彼が今、悩んでいる。

 

このまま仕事に没入するのか、プライベートの時間を増やすのか。この二者択一を迫られている。

 

話変わって、僕は彼には遠く及ばない貧弱サラリーマンなわけですが、似た状況に4年ほど前に遭遇したのです。僕も一応大手企業にいまして、月に60時間くらいの残業が当たり前の生活をしていたのですが、結婚を境に自分のことだけ考えて生きていく生活に限界を感じて逃げ出しました。中小企業に転職して定時で上がるけど、給与は下がるというよく見る負けパターンです。

 

でも僕はやっぱり、あのままその企業にいたら今の子供が2人いて、妻と仲良く暮らせて、人生の豊かさってこういうことかな。という感覚を掴むことはできなかった。と確信しています。

 

時間は有限で、それを何に使うかというのは個人に委ねられているわけです。自己責任です。

当たり前ですが、組織は自分の選択まで責任をとってくれません。その組織でうまく立ち回らなければ、静かに見放されて飼い殺しにされる

。うまく立ち回れても、やればやるだけタスクは増やされて自分が潰れるか、人としての何かを消耗して生きていく可能性が高い。

 

イキイキしながら働けるというのは本当に一握りだと思います。そもそもそういう風に見える人って僕からすると「今を生きている人」なんですね。

 

今を生きるためには、明日はこうなりたいとか、いつかこうなるんだぞ!っていう情熱みたいな思いが不可欠だと思うんです。

 

情熱、やりたいことと言い換えることもできますけど、これは人生経験の幅と深さからしか生まれないと思うんです。絶対的に人とは違う濃度の経験を一定時間自分に蓄積する必要がある。これはおかしいぞ?という感覚を信じて行動に移せるようになるまでには数年単位の時間が必要だと思います。これは僕の経験ですが。

 

学校出たての人がすぐに情熱を持つには難しいし、一つの会社、一つの組織、まして周りを見渡せば違いはあれど、共通認識がたくさんある日本人が多いわけですから、深く考えて生活していなければこの蓄積を継続することは難しい。そんなことよりあれしよっ。みたいなことでそのきっかけは流れていくと思うんです。今の日本は幸か不幸かそういう仕組みになってしまっている。

 

どんな経験だっていいのですが、この経験からはみ出ることでしか、情熱は湧いてこない。

僕たちは感情があって、昨日思っていたことが今日嫌になることもあるし、人が変わったような行動に出ることもある。それが当たり前であって、昨日と同じことをしてたんでは自分の理想には近づけない。

 

友人は優秀で、優しい。いいヤツです。でも組織はそこまで汲んでくれない。最終最後は成果が出るか否か。与える権限を増やすか減らすか。シンプルです。

 

僕自身の転職という決断もハッピーなことは最近になってやっと少し実感できるようになってきているのであって、それまでは転職しなきゃよかったかな、と思うことがたくさんありましたし、妻にも迷惑をたくさんかけています。どうにか現状をさらに好転させていきたいと悩んでいる最中なのです。

 

僕は自分が無理せず続けられることで生活をしていけることが理想です。好きなこと、というより無理せず自然に続けられることという感覚です。熱中できるほどのものって無いんですよね。このブログもそうですが、あとは筋トレくらいでしょうか。前途多難な感じです。

 

ただ強がりではなく、転職前より人生の幸福を感じるアンテナは高まりました。いろんな痛みを経験することで、当たり前にあることに対する感謝の気持ちが高まったことが要因かと思います。

 

擦り潰れてしまうくらいなら思い切って自分の心に従うのもありじゃないでしょうか?僕はそう思って生きています。

 

本日は以上です。

お読みいただきありがとうございました。

育児による停滞感のモトを考える

久しぶりに書きます。

子供の体調不良だったり、パートナーの体調に波があったり、自分としても波に乗り切れないコンディションの中にcovid-19が来たので1ヶ月ほど書く気が湧きませんでした。

 

さて、本日はこの1ヶ月間で自分に湧き上がったモヤモヤについて整理のために書きます。読んでいただける価値を出そうと思います。

 

幸福感と停滞感は共存するし、停滞感の方が強く感じる。何故か?

 

自分の成長〈 家族感の醸成、子供の成長

への価値観の移行

 

育休に入り、自分を取り巻く環境が強制的に上のようになり、その環境に慣れ切れてないからだと考えています。

 

育児は幸せなことだと日々実感します。子供にしろパートナーにしろ、ふとした瞬間の笑顔だったり、寝顔だったり、子供が出来なかったことができるようになる瞬間はなんとも言えない幸せな気持ちになります。

なるんですが、その上で今までの仕事をしている生活から大きく変わり、お金を得る実感や会社での存在感が薄まることで、自己の成長感というのは引き換えに失ったと思います。

 

我が子の成長を喜ぶ一方で、自分も成長したい、だけどその気力が湧かないから映画見るくらいで、また朝になる。そんな日々が続いていくとかなりフラストレーションが溜まってきました。

変わりたいのに、あえて変わらない選択をしている自分がイライラの原因だと思います。

 

自分が現状維持で納得できないのは今までは自己の成長のみを求めれば良く、かつその成長が自分でもわかりやすかったからだと思います。

 

それについてはこの記事で書きました。

夫から考えるPMDD処世術 -男の世界なんて天国みたいなもん- - つらい、からこそ輝く人生

 

この価値観の移行にはもう少し時間がかかりそうです。頭でわかってるが、条件反射的に拒絶する自分がいる感じでしょうか。そうなりたいと願っているのに、その考えに浸かることに危機感があるのが正直なところ。

 

でも、この痛みにも似た感覚は必要なことだと感じています。家庭を築くことは他者を受け入れること。それには大きなパワーが必要で、僕はそれに挑戦しているわけです。

 

そして、自分を過去に引っ張り戻そうとしてくる自分の動きや考えのモトなんですが、どうも自分の思ったことを好きにやっている人やコトを見ると戻りたくなる気持ちが強くなる気がします。

 

嫉妬ですね。ないものねだりです。

 

なので、基本に立ち返って生活しようと思います。

 

昨日の自分より良い自分になるように努める。比較対象は自分のみということ。人を羨むのではなく、昨日の自分よりも進んだかどうか。

 

携帯は極力触らない。

そのまま。世の中の情報はニュースのみで十分。特にSNSには触れない。

 

身体を動かして疲れるようにする。

ジムに行けなくってしまったけど、家でできることで熟睡して、気持ちよく朝を迎えること。

 

育児は一生つづくのだから、持続できる道を作り上げてる。

 

本日は以上です。

もし読んでいただけたならありがとうございました。

育児は僕に「ただ、今を生きること」を教えてくれる。

未明に泣いて起きたり、ご飯をうまく食べれなかったり、オムツ変えているときにジャストタイミングで放尿する。着替え1つにも時間がかかる。

 

どれか1個が1日1回なら良い。微笑ましいなという気持ちが勝つだろう。

「この小便小僧め♪」となおさら愛おしく対応できる。

 

でもこれが毎日ランダムで複数回やられるとそんなことは言ってられない。

コンマ1秒でもいいから今この状況がすぐに終わるように祈りたくなる気持ちでいっぱいだ。

 

ぐずる我が子を抱えながら見る夕日は、なんだか世の中から自分が取り残されて、この時間が明日も明後日も永遠にぐるぐる続いていくように思える。

 

悲しくも、辛くもない。幸せなはずなのに、思わず出るため息。

誰のための時間か?何になる時間なのか?何か僕が悪いことをしたのか?

 

誰かを責めたくなるけど、その矛先は無い。

 

そんな感覚に囚われていることを自覚した時には子供たちを撮ったカメラロールを頭から見直す。

 

無邪気な、笑顔 真顔 変顔 泣き顔 困り顔 ポーズ ご飯を美味しそうに食べてる。

生まれたての顔から、少しずつ目鼻立ちがはっきりして、髪の毛が増えて、服のサイズが上がって、少し前の服はもう入らない。手も足も大きくなった

 

寝転ぶだけだったのに、寝返りして、後ろにズリ這いして、ハイハイしたと思ったらすぐにつかまり立ちして、よちよち歩きからへたくそなかけっこができるようになったと思ったら、こっちも走らないと追いつけないスピードになった。

 

泣くだけだったのに、あーあー んまー ママ パパ くちゅした(靴下) ごそば(やきそば) おはよう おやすみ ほんとにおこってるんだからね! どこでそんな言葉言ったっけ?ってことがたくさん。

 

たった数か月で、たった数年で全くの別人になってしまう。振り返ればあっという間で苦しかったことの記憶は薄れていて、楽しかったことがぼんやりと残っている。

 

きっと、これからの君はもっと成長して、僕を置き去りにする日が来る。子供じゃない、大人の君が知らないうちに本当の君になるんだろう。

 

「明日はどんなことができるかな?寂しいけど、楽しみだ。」

 

こう思えたら、その日あった細かなことは嫌なことも良かったこともすべて大事な思い出で、今日しか出会えないイベントだったんだろうと腑に落ちる。

 

その日では分からない成長も、時間が経つとびっくりするくらいの成長。その一部を、毎日、毎時間、毎秒のやり取りの中で繰り返し、進んだり戻ったりしながら紡ぐ日々は本当に貴重な体験だと思う。

 

だから明日も、僕なりに懸命に生きよう。そうしたら、またすぐに君と笑い話ができるだろうから。

男性も育休を取った方がみんな幸せだと思う理由

今日は育児について書きます。

似たようなことで考えてたり悩んでいる人に届けば幸いです。

 

僕の家族は妻と長女、長男で4人家族です。

長男は今6ヶ月ほどで動物と人間の間を行ったり来たりしながら毎日健やかに成長してくれています。

 

育児休暇をいただいていまして、現在家に張り付きながら、日々穏やかに過ごしています。と言いたいですが、大人2人がかりでヒーヒー言いながら毎日をやり過ごしながら、たまに発見する子供の成長に感動したり、イライラが止まらない夜中や夕方を元気に過ごしています。

 

ありがたいことです。ですが、ここまで2人目がキツいなんて知らなかったよ。というのが本音でしょうか。お花畑な日常ではなく、さながらアマゾンを素手で探りながら進んでいくヒリヒリ感は人生で初めての体験です。

 

育児は、親が頭を悩ましながら、迷って迷ってこれでいいのかな?って不安になりながら、それでも進まなければならない事が毎日、毎時間、それがいつ終わるかも知れない状況に突然放り込まれたような感覚になります。実際今もそうですし。

 

前置きが長くなりましたが、ここ数年で男性の育休取得は昔(の感覚はよく知りませんが)よりも随分と好意的に扱われているなと感じています。僕も会社の人からは応援というか、いいねっていう感じでお話できました。

 

なぜ男性も育児休暇を取った方がいいかと言いますと、

仕事なんかよりも遥かに大事で、かつ切迫した状況が大切な家族に襲ってきている、けど最高に創造的で大切な人の役に立てるから。

 

です。これだけ見るとヒーローみたいですね。

 

会社員であれば、仕事はある程度自分のコントロール下に置けます。仕事相手の性格がどうあれ大人であれば、話せば伝わりますし、納期だったり、完成イメージだったりとゴールがあるからです。そして、1番大きいのはたとえ自分でなくても他の誰かに任せられるということです。

 

ベンチャーや新卒の人は少し違うかもしれません。

 

このことは母親となる人にも当てはまることですが、この役割の最適化とも思える専業主婦というのは現代では厄介だなあ、と思うのです。

 

夫婦間で仕事と家庭ということが俗人的に振り分けられていて、当たり前だと思われていたのは。それでしか生きていけない(=許容しない)社会だったからじゃないかと思います。

でも、今はご存知のように多様性であったり純粋な個人というものの価値が非常に高まっているので、みんながみんなこれでいいという答えは無いわけです。

 

こんなこと当たり前ですよね?

でも僕は苦しむ妻から言われてやっと古い価値観に囚われていること気づき価値観を変換させることができました。生まれてから20数年経ってやっとです。

 

その考えの記事はこちら

夫から考えるPMDD処世術 -男の世界なんて天国みたいなもん- - つらい、からこそ輝く人生

 

冒頭で書いたように、育児は半端じゃなく大変で、その悩みの数も膨大なのに、本気でそれを解決しようとする人はたった1人か、2人です。

 

母親と父親です。

 

仕事に置き換えたら何にあたるんでしょうか?僕の経験値が狭いことが大きいですが、思い浮かびません。

 

妻は懸命に育児をしてくれています。でもどうしたって限界があります。そもそも大人1対子供2の勝負は難しいですから。

普段の仕事をしながら、僕なりに育児をしているつもりでした。でもそんなたまにやる程度じゃ仕事以上の難題を解決できるわけがないのです。

 

昨日できなかったことが、今日は出来るようになる子供の姿を毎日見ていられることが育児をしている親への最大のご褒美なんだと思います。

今日は成長を見て、初めて思わず泣きました。接している時間が増えたこともありますが、僕も不安だったんだと思います。でもそれも子供の何気ない一言や行動で吹き飛んでしまうのはマジックですね。

 

でもその喜びに気づくためには親にも心の余裕が必要で、1人より2人の方が無理なくできると思います。毎日毎日、うまく喋れない、または昼夜を問わず泣き叫ぶ我が子を目の前にすると、どんどん心がすり減っていくんだと、僕ですら感じます。

 

2人でやっててそうですから、ワンオペ育児はこの2倍以上に辛さがあるはずです。

 

本来なら幸せなことがそうとは感じられないどころか、追い詰められてしまう生活が出来上がってしまったことに後悔をしました。

そこから少しでも力になれることを選択した結果が育児休暇を取ることと、そして可能な限り妻の負担を僕にも振り分けて長い育児生活を楽しめるような基盤を妻の中に持ってもらえたらと思っています。

 

取得してまだ日も浅いですが、妻からはありがとうと言われる回数が増えているので、この方向でよかったんだと思っています。

 

会社に言い出すにも勇気はいりましたが、それよりもどうにかしたいと思う気持ちがあれば些末な事だったと今では思います。迷惑はかけていますが、この選択はの自分の価値観ですから、曲げるわけにはいかないのです。

 

人によって判断は分かれると思いますが、僕は男性の育休取得は家庭を救う第一歩だと思います。

 

今日は以上です。

何ともまとまりのない文章を読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

夫の視点のPMDD処世術-愛しているなら貫くこと。

さて、今日はPMDDのパートナーに対する接し方で一番大事にしていることを書きます。

 

タイトルにもありますが、今日言いたい事はこれになります。

 

以前に書いた記事夫から考えるPMDD処世術 -男の世界なんて天国みたいなもん- - つらい、からこそ輝く人生

の通り、僕の最優先事項は身近な家族の幸せです。つまりはパートナーである妻の笑顔です。

 

浮き沈みの激しいPMDDの症状による強い言葉はいつも僕の気持ちを挫きそうになります。そんなに言うか、と。

これは偽らざる気持ちです。

 

そもそも妻から言われる事は正しいので、余計に心にクるわけです。正しいことを強い言葉で言われる事は何度やっても慣れないのですが、ここを乗り越えなければなりません。

 

視点を変えてPMDDということを抜きにしてこの状況を整理すると、

 

自分が家庭生活においてパートナーに不満を抱かせていることを向こうが懇切丁寧に伝えてきている。

 

という図式になるかと思います。これが僕の気持ちの整理の仕方にもなっています。

 

としたらその改善を実践するかどうかは全て自分次第です。

 

そして多くの改善点はある時にやっていることではなく、毎日のことやよくやってしまうことが多いので、自分としては改善に取り組もうと思ったらそれこそ四六時中意識しなければ改善など出来ません。習慣を変えるには時間と根気が必要です。洗濯物を畳むとか、風呂掃除するとかの日常の行いで、お互いの価値観を合わせる難しさも合わさってきます。

 

僕の一番心に残っていて、きっと今後もずっと意識し続ける事は体臭です。

シンプルに臭いと言われた時のショックは大きかったですが、匂いがきつい、またはキツそうなものはたとえ仕事だろうと食べない。また脂っこいものや間食は控えるなど食習慣を1つずつ変えていきました。それでも1つやってはNGを喰らう連続でしたが。

 

また運動習慣も気をつけました。特に筋トレは基礎代謝を上げて体から新鮮な汗を出す手助けをしてくれた大切な習慣になっています。

 

人生史上で最大に傷ついた言葉でしたが、時間をかけて地道にやっていくことで妻からは体臭が全く気にならないと言われるようになりました。僕は奇跡だと思っています。妻、鼻が敏感なので。

 

最初は嫌な気持ちでした。傷ついたとか、なんで?とか自己保身の気持ちでいっぱいでした。

 

でも、1つやっては失敗し、またやってみてを繰り返すことを継続すると、辛さは変わりませんが気がつくと自分自身が誰かのために一生懸命になっているなと思え、それがとても尊いことなんじゃないかと、ここ最近思いました。

 

その瞬間に自分がとても傷ついても、一晩たって、また一晩経つにつれて妻の言葉はいつも正しいなと思うのです。

 

PMDDの良いところなのかもしれませんね、普段言えないことも勢いままに相手に伝えられる事は。受け止めてあげることができれば最強の自己啓発ツールかも。笑

 

そこに気付いてからは言い返すんではなくて、愚直に、妻のために自分をより良くする方針にしました。

 

全部はできないかもしれませんし、満足するのかもわかりませんが、僕としてできることを精一杯やろうと思います。

 

今日は以上です。

パートナーの言葉に傷つきそうな時の心の持ち方

今日は傷つく言葉を如何にいなすか、について書きたいと思います。

 

 

前提として、PMDDの症状を見たり、妻から聞くと、どうも本人の意思が入り込めないほどの何かに支配されてしまうようです。恐らく、現状に対する不公平さみたいなものへの感受性が普段よりも100倍くらい引き上がり、ブレーキとなる理性も捌き切れないのかと。

 

そんな状態から繰り出される言葉は、よくそんなこと言えるなあ。と思えるほど罵詈雑言のオンパレードです。言う側も辛い状況にあることは頭で理解はしますが、言われるこちらも人間なのでやっぱり傷つきます。

 

以前の記事(PMDDのパートナーに対する処世術① - つらい、からこそ輝く人生)でも触れましたが、僕の対処策は

 

そういう災害、または儀式だと思ってやり過ごす。

 

です。極めて消極的に見えますが、長年付き合ってきた経験からこれが最善手だと確信しています。無理に反論しても火に油ですし、そもそも話し合う場ではないことは経験された方ならご理解いただけるかと思います。

 

そう、もう1度書きますが、話し合いの場ではないのです。そして本人からしても決して本心ではない言葉がふんだんに仕込まれて出てくるのです。

 

最初のうちは僕も額面通りに受け止めていましたが、ある時遊び心で心の中で歌を歌ってみました。

「はやくおわ〜れ〜♩」的なテキトーな歌です。

 

もちろん話は聞いていますし、返事もします。必要であれば自分の意見も出します。ですが、この場で求められることは相手のホルモンバランスが調整可能な段階にまで落ち着くことを待つことのみです。

 

抱きしめたりのスキンシップもしますが、これは初手に持ってくるべきではないと思います。まずパートナーの怒りや悲しみがないまぜとなった何かを吐き出させること。これが第一です。他はいらないと思います。

 

  1. ただそこにいること。
  2. 部屋から出て行かないこと。
  3. 側からはつがず離れずをキープして、徐々に距離を詰めること。

 

このステップを踏んでいく中で必ずキツイ言葉を吐かれます。まるで暴風の中中心部にあえて突き進むような勇気が必要です。

 

これにはある種の気楽さというか、能天気さが必要だなと思います。相手の懐に飛び込むには話を全て真に受けていたらこっちの身が持たないです。そのために自然と身についたのが歌を心の中で歌ったりと、心の割合のいくらかを関係ないことで隙間を作ることです。

 

この余白があることで僕には余裕ができます。「なんか言われてるな。」くらいまでこちらの気持ちをキープできれば、パートナーがダウナーに切り替わったときにこちらもすぐに対応できます。

 

大いなる自然の前に人は無力なものなので、可能な限りニュートラルな状態を保つことを意識しています。

 

妻も僕が話を全て真に受けていないことを承知しています。そして、だからこそ安心して?言葉を投げつけることができるんだと思います。

 

良い意味でテキトーな感じでやってます。

 

今日は以上です。